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松山電気軌道
mitu-sindate
上の地図は三津周辺の地図である。
松山電気軌道(松電)は1911年(明治44年)9月1日に住吉-本町 札ノ辻-道後 間が部分開業した。
水色の線が1911年9月1日に先に開業した区間、オレンジの線が1912年2月1日に開業した区間をあらわしている。

各電停には赤い丸で表わしているが、これはあくまで目安と考えていただきたい。
同様に、線についても参考文献を調べて「恐らくこの辺りであろう」と思われる場所に引いているので了承いただきたい。

まず問題なのは、三津の地形は昭和の初めころから埋め立てられ現在とはまったく違うということだ。
その為、当時の地図の道路や現存する建物の位置、その他埋め立ての痕跡を辿って調べる必要がある。
廃線研究は、地域の政治事情や文化までも調査しなければならないのである。






大正2年発行の松山市全図の隅に三津濱全図が掲載されている。
このように、昔は今とかなり地形が違っているのが分かる。
これは昭和の初めに湾口工事が始まり埋め立てを行ったからである。

大きな島は人工島であり、稲荷新地と呼ばれている。
消えかかって殆ど見えないが、橋が2本掛かっている。左側が「思案橋」である。
右は「見返り橋」である。

稲荷新地は、遊亭のあった場所である。
思案しながら思案橋を渡り、楽しんだあと見返り橋を渡り帰ったという。

まず、地図中央を左右に走る松電の軌道のすぐ横は川になっている。
今の地図では川はない。
この川は堀川と言って、松電の堀川という電停の名前にもなっている。

上の地図とほぼ同じ位置に松電の軌道が描かれているのが分かると思うが、この地図の江ノ口電停のの位置は実際の位置とはずれている。電停の位置が途中で位置が変わったのだろうか。

この地図には堀川電停の記載がない。
松電の電停は、地図によってはあったり無かったりするので、それがまた廃線跡研究を難しくしている要因となっている。


みつはまレトロ店内にて撮影
この地図には江ノ口電停と堀川電停、住吉電停がはっきりと記載されている。
よく見ると、江ノ口停留所、堀川停留場、住吉停留所と書かれている。
「所」と「場」を分けているのは、恐らく電停の規模によるものであろう。
どうやら「所」の方が大きい電停をあらわしているようだ。




左に掲載している図面は、愛媛県立図書館蔵の三津浜築港平面図である。
その下に掲載しているのは右下付近の拡大図である。

真ん中の川が堀川である。
堀川は、L字湾曲している。

この図面には驚くべき物が2つ記載されている。

1つめは、図面右下の橋のたもとに松電の江ノ口電停の位置が記載されている。
この橋は、上のでも述べた思案橋である。

斜めで非常に見えにくいが「松山電気軌道株式会社停留所」と書かれている。
その文字の隣には「軌道」と記されている。
残念なことに、これより右側の図面は無い。


2つめは、松電の未成線だと思われる点線の記載である。
図面右下の江ノ口電停から点線が伸びている。
この点線は一端堀川に沿うように進むが、進路を左に変えて左の方へと続いている。

今回紹介したのは広大な図面の一コマであり映ってはいないが、この点線は実は旧魚市場付近まで続いている。

松電関係のホームページには、松電が大阪市電から2階建て電車を購入して、それを三津浜海水浴場で電車納涼台として使ったという記事を見た方もいるであろう。
しかも松電は、これを何故か貨車として購入しているのである。

ここで謎になってくるのが、2階建の電車を浜まで運んだのか、それも軌道で浜まで繋がっていたのかということになる。

この点線は海水浴場に近い所まで続いている。
もしかすると、営業路線ではなかったが、軌道だけは敷かれていて、2階建て電車は自力で浜まで行けたのかもしれない。

ただ、これは詳しい資料が見つかっていない為、憶測の域を出ていないのが現状である。



三津浜築港平面図が見つかったお陰で、江ノ口電停の位置はほぼ確定した。
次に疑問に出てくるのが、当時の様子である。
江ノ口電停は、どんな場所だったのだろうか。


みつが浜より引用
 出版者:三津浜商工会
出版年月日:大正12 国立国会図書館蔵
上の写真は松山電気軌道江ノ口電停を捉えた貴重な写真である。
手前が住吉・松山方面である。
写真右側に電柱が立っている。その直ぐ右側は堀川である。
写真奥には斜めに連なる家々が見えている。
三津浜築港平面図と見比べると、場所が一致する。

また、レールも興味深い。
伊予鉄などと比べると明らかにゲージが広い。なんともどっしりしている。
電化する前の、伊予鉄のケージは、この半分ほどしか無かったことに驚きである。

上の写真と、大体同じ位置を撮影 撮影者:長方形
左の写真は、上の写真と大体同じ位置から撮影そている。この場所にかつて松山電気軌道の江ノ口電停があった痕跡はまったく残っていない。

しかし、上の写真で紹介した斜めに連なる家々については、左の写真でも道がカーブしており、その痕跡が感じられる。



それでは、実際に江ノ口から住吉までの廃線跡をたどって見よう。


撮影者:長方形

写真奥が住吉・松山方面である。
江ノ口を出発した松電の路面電車は次の電停である堀川を目指して走行した。
現在は埋め立てられているが当時は、道路の左は堀川が流れていた。
なので、松電の電車は堀川に沿って走っていたのである。
松電が通っていたていた場所は、現在では県道40号線となっている。
道路はミニクランクをして三津・松山方面に続いて行く。




撮影者:長方形
ミニクランクを抜けると、右手にいとさんが見えて来た。
この辺りではかなり有名な店である。
長方形もいとさんには何度も飲みに行ったことはあるが、松電の研究を行うまで、ここにかつて軌道があったなどと考えもしなかった。



撮影者:長方形
この辺りが堀川電停である。
十字路になっているが、恐らく十字路の左側が堀川橋の跡である。
現在は埋め立てられているので、本当にここに橋があったなど想像も出来ない。
十字路の右に注目していただきたい。エアコンの室外機の隣に石の柱がある。
この石には「ほりかわはし」と書かれた親柱である。
堀川橋自体は十字路の左にあったと思われるので、移設された可能性が高い。
因みに堀川橋の親柱は、こことは全く違う場所にも残っている。


撮影者:長方形
大正2年9月と書かれている。


この地図はグラフ松山によると昭和2年頃の地図とのことだ。
江ノ口電停の両脇にある橋が消滅して陸続きとなっている。
湾口の埋め立てが始まっているようである。
江ノ口と住吉町の電停の間にある筈の堀川電停の記載がない。
昭和2年と言えば、伊予鉄と合併した後に残っていた江ノ口〜萱町間が廃止された年である。
その頃には堀川電停は廃止されていたのかもしれない。
松電には時期によって、あったり無かったりする電停が結構あるようだ。



撮影者:長方形
さて、堀川電停を通過すると、いよいよ伊予鉄三津駅に近づいてくる。
上で紹介した三津浜商店案内の地図によれば、当時このあたりに道はなく軌道だけが敷かれていたようである。



撮影者:長方形
松電の軌道は、ここで右にカーブする。
前に見えている橋は当時は無かった。
右の道に続く緩やかなカーブは、当時の名残であろうか。


撮影者:長方形
カーブを曲がった先は、少し広くなっている。
この辺りが住吉電停があった場所である。
住吉電停は1911年の開業当初の終点である。当然、電車が退避できる設備があったに違いない。三津浜商店案内での表記も停留所になっている。
恐らく、上で紹介した江ノ口電停の写真のように電車が待避出来たのだろう。
この妙に広い空間も、待避線があった名残と言われている。
左の川を挟んだ向こう側は、ライバルである伊予鉄の三津駅である。



撮影者:長方形
橋の向こうには伊予鉄三津駅が見える。
当時は、この橋を堺にベルを鳴らして大声を上げての乗客の獲得合戦が繰り広げられていた。



撮影者:長方形
住吉電停を出発した松電の路面電車は堀川沿いを写真奥に向いて進んだ。
もう少し先で、軌道は堀川を超えて向こう岸へと橋を渡る。



撮影者:長方形
目の前に見えているのが松原橋である。
現在は人が一人通れる程の小さな橋だったが、当時はもう少し大きな橋がかかっていた。
松電の軌道は、丁度この辺りから斜めに左奥側へ向けて川を越える。



撮影時期:昭和4年6月
みつはまレトロ店内にて撮影
この写真は昭和4年6月に撮影され貴重な写真である。
右奥に先ほど紹介したクランク部分が見えている。昭和4年なのでで結構埋め立てが進んでいるでいるようである。

やや右奥の橋が堀川橋である。
写真手前にある駅が伊予鉄の三津駅である。
写真左手前に、うっすらと斜めにかかる橋が見えているが、これがまさに松電が堀川を横断した橋である。


撮影者:長方形
堀川を渡った松電は写真奥に向け走行した。
この交差点を左に進めばJRの三津浜駅である。
軌道は写真奥に向け敷かれていた。



撮影者:長方形
松電の軌道は、堀川沿いを走行し、次の停車駅である、新立を目指した。
因みに新立という地名は現在は残っていない。



撮影者:長方形

新立電停は丁度この辺りにあった。


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