松山電気軌道 概要


松山電気軌道の簡単な年表

1907年04月(明治40年):松山電気軌道株式会社設立
1911年09月01日(明治44年):住吉〜本町間と、札ノ辻〜道後間が開業
1911年09月19日(明治44年):本町〜札ノ辻間開業
(この時点で住吉〜道後間が繋がった)
1912年02月07日(明治45年):江ノ口〜住吉間開業
(これで、江ノ口〜道後間が繋がった。松電時代にこの後に開業された区間はない)
1921年04月01日(大正10年):伊予鉄道に吸収合併
1923年06月30日(大正12年):江ノ口〜道後間が標準軌1430mmから狭軌1067mmに
1927年11月01日(昭和02年):江ノ口〜萱町間廃止


松山電気軌道の電停
江ノ口〜堀川〜住吉町〜新立〜三本柳〜山西〜- 江戸谷〜知新園前〜衣山〜六軒屋〜車庫前〜萱町〜本町〜札ノ辻〜西堀端〜南堀端〜榎前〜八段〜裁判所前〜一番町〜御宝町〜六角堂〜上一万〜農事試験場前〜公園前〜道後


松山電気軌道の設立経緯
1888年(明治21年)日本初の軽便鉄道として伊予鉄道の松山〜三津間が開業した。
鉄道が開通した事で、三津は松山の海の玄関口として栄えていた。。
しかし、4年後の1892年(明治25年)に伊予鉄が三津〜高浜間を延長開業させた事で自体が急変する。
高浜は小さな港だったが、目の前に興居島と呼ばれるへの字形の島があり天然の良港であった。
一方三津は水深も浅く、大きな船に乗り込むためには岸から小舟を使って船まで移動しなくてはいけなかった。
しかも、目の前には興居島のような防波堤代わりになる島もなく、良港とは言い難かった。
このままでは高浜に松山の海の玄関口を取られてしまう。
なんとかせねば。
そう思った三津の人々は、諸悪の根源である伊予鉄道に対抗する為に松山電気軌道株式会社を設立したのだった。



松山電気軌道株式会社は1907年(明治40年)に設立された。
目的は、松山〜高浜間を開業させた伊予鉄道に対抗する為である。
この時、既に伊予鉄は道後鉄道と南予鉄道を吸収しており、道後線と呼ばれる古町〜道後間のルートや、道後〜一番町のルートも存在した。
松山電気軌道は、三津〜道後を鉄路で繋いで、温泉客を伊予鉄から奪おうと考えた。
対抗が目的で作られた松電は、伊予鉄の線路に並行するように線路は計画された。
しかし、当時は既存の鉄道線路に並行する線路の建設には厳しい制限があった。
しかし、松山電気軌道は「軌道」にする事で、難を逃れた。
伊予鉄は私鉄軌道法に準拠しているのに対して、松山電気軌道は軌道条例に準拠したのだ。
その結果、根拠法が違う為、鉄道建設の特許を取得出来たのだった。



伊予鉄VS松電
1911年(明治44年)の9月01日、松電は部分開業にこぎつけた。
同年9月19日には住吉〜道後間が繋がった。
そして、1912年(明治45年)2月07日に江ノ口〜住吉間が繋がり、江ノ口(三津浜港付近)〜道後までが1本の鉄道で繋がった。
伊予鉄と松電の争いは凄まじかった。
伊予鉄は当時、まだ軽便鉄道の軌間762mmだった。
しかし、松電は標準軌の1435mmを採用した。(新幹線と同じ幅)
線路幅がほぼ倍である。
当然走行安定性もよく乗り心地も良い。おまけに電車なので煙も出ない。
伊予鉄道も慌てて1911年に道後線の古町〜道後間を1067mm軌間(在来線と同じ)に改軌して電化した。
松電と伊予鉄は路線ルートがほぼおなじである。
三津(住吉町)や道後駅などでは、鐘を鳴らし合い運賃の値下げ競争をして乗客を奪い合っていたのは有名である。

伊予鉄と松電はレジャーでも争った。
鉄道会社は遊園地を持っている事が多い。
例えば、西武であればとしまえん、富士急行の富士急ハイランドなどがある。
伊予鉄もご多分に漏れず遊園地を持っていた。
梅津寺遊園地である。
松電も対抗して、現在の衣山5丁目付近にある古池付近に知新園という遊園地を開業した。
三津浜にも海水浴場を開業して対抗した。
それもこれも、伊予鉄から乗客を奪うためであった。

奪い合っていたのは乗客だけではなかった。
隣線の電力事業においても、伊予鉄と松電は競争した。
しかし、松電は三津の有志で作られた鉄道である。体力がなく、次第に借金は膨らんでいった。


吸収合併へ

実は、松電は開業当初から共倒れを懸念して、伊予鉄に合併話を持ちかけている。
松電側の経営陣には、おそらく先が見えていたのだろう。
長くは持たないと……。
しかし、伊予鉄の社長には「その時期にあらず」と拒否されてしまった。
松電側は、監督する鉄道院に調停を依頼し、鉄道院からも伊予鉄は合併を説得される事となったが、その時は運賃に関する協定しか結べなかった。
その後、松電と伊予鉄の役員間で話が進められ、合併契約を締結。
しかし、松電の株主総会で合併反対派に押されて合併契約が破棄されてしまう。
その結果、松電の社長は経営責任をとって辞任した。
だが、赤字は膨らむ一方である。
再度、合併が決まるが、またもや株主総会で契約破棄され社長は辞任した。
3度目の合併が決まり、株主総会でも賛成に傾いたのだが、結局破棄されてしまう。

しかし、約10年間の激戦の末、1921年(大正10年)に松電はとうとう力尽きた。
伊予鉄に吸収合併されたのだ。
これにより、伊予の街を騒がせた伊予鉄と松電の戦いは終了した。

その後、1453mmだった松電の線路は1923年(大正12年)に伊予鉄と同じ規格の1067mmに改軌された。
わずか4年後の1927年11月01日(昭和02年)には、平行路線である江ノ口〜萱町間が廃止。
休止したり、移設された線路もあり、今は殆ど原型をとどめていない。



廃線跡研究の難しさ
松山電気軌道は今から(2017年時点)100年程前の鉄道である。
当然、調べる資料も明治〜大正が中心だ。
しかし、当時の詳細な地図が殆ど無く、正確な場所を調べる事が困難となっている。
地図によっては、電停が有ったり無かったりと実に不安定でもある。
廃線跡だろうと思しき場所はあるが、道路の拡張や宅地開発の影響で正確な場所を特定するのも難しい。
特に、知新園のあった西衣山周辺は宅地開発を繰り返しており、2010年頃にはあった廃線跡と思しき小道も、現在では造成されて消えつつ有る。
つまり、廃線跡の研究は時間との戦いという事なのだ。


次回からは、古地図や航空写真、歴史資料を参考として、松山電気軌道の廃線跡研究を行ってゆく。


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