Pokkories鉄道館

松山電気軌道

新立〜山西間





新立〜山西間拡大
上の地図は、新立〜山西間の拡大図である。
この区間は1911年(明治44年)9月1日に開通している部分である。
松電の軌道は堀川(宮前川)を上りながら川沿いを進んでいた。
三本柳まで川沿いである。
丁度、三本柳電停の部分でカーブをする。そして、伊予鉄の山西駅に近づいていくことになる。
現在の伊予鉄山西駅は、当時より東よりに出来ている。
松電が走っていた当時は、松電の山西駅に近い場所にあった。

上の写真には、三津浜街道を走る松山電気軌道の電車が写っている。
写真左が江ノ口方面、右側が松山・道後方面である。
手前に見えるのが堀川(宮前川)で、街道奥には塩田が広がっている。

この辺りは松縄手と呼ばれており、大きな松の木が三津街道を歩く人々に木陰を提供していた。
しかし、現在の三津街道には巨大な松の痕跡は皆無である。
戦争中に燃料にするということで、全部切られてしまったのだ。



撮影者:長方形
新立電停を出発した松電の電車は、堀川(宮前川)を右に見ながら進む。
松電が走っていた道は拡張され、国道437号線となっている。
上で紹介した通り、この辺りには塩田が広がっていたので、当時とは景色は全く違う。



撮影者:長方形
松江橋の交差点である。
国道437号線は、この交差点を左に曲がり、久万ノ台方面に繋がっている。
松電の軌道は、国道から離れ交差点を直進する。

写真右に写るは松江橋である。
松江橋は明治43年には小さな橋として描かれていた。
当時は、こんな大きな交差点ではなく、小道程度だった。




撮影者:長方形
上の2枚は、大体同じ所から撮影した写真である。
場所は、松江橋付近と思われる。
奥が江ノ口で手前側が松山・道後方面だ。
松縄手は無くなってしまい、本当にここが同一の場所とは思えない。
だが、良く観察すると現在の写真にも痕跡は確認出来る。
左奥にある林だ。
この林は厳島神社の敷地である。




撮影者:長方形
松江橋を越えた松電の電車は、堀川(宮前川)の横をさらに進む。




撮影者:長方形
数百メートル進むと、間もなく次の電停が近づいて来る。




撮影者:長方形
右の橋は三本柳橋である。
松電の三本柳電停はこの辺りにあったのだが、残念ながら詳しい資料はまだ見つかっていない。
カーブの途中にあったのか、それともカーブ手前なのか曲がった後なのかは不明である。

軌道は、このカーブにそって左に曲がっている。
「セブンスター」の看板の方にも道が続いているが、かなり細い道であることが分かる。
つまり、松電の軌道にそって道も発展しているという事である。
もし、松電の軌道が真っ直ぐに伸びていたなら「セブンスター」の看板の奥に続く道も立派なものになっていたのかもしれない。

このように、松電は伊予鉄に吸収されてしまった会社ではあるが、現在の松山に確実に痕跡を残しているのである。



撮影者;長方形
さて、カーブを曲がった松電の軌道は山西方面に向かい直進する。
当時のこの辺りには殆ど何もなかったが、現在では片面1車線の道だが、済生会松山病院や、伊予銀の研修施設などが立っている。



撮影者:長方形
道を進むと、右手に大きな敷地が見えてくる。
新田高校である。
この新田高校は、松電の軌道が廃止されてから立てられているため、松電時代には存在していない。




撮影者:長方形
この辺りに山西電停があった。
目の前には、伊予鉄高浜線が通っている。
現在の伊予鉄の山西駅は、ここから少し離れているが、当時はこの辺りにあった。
伊予鉄に対抗する為に作られた松電も、この辺りに電停を作ったのだ。
しかし、残念ながら曖昧な資料しか残っておらず、正確な位置の特定は出来ていない。

山西電停を過ぎた松電の軌道は、大きく右へカーブをして、恐らく新田高校の敷地を通っていた可能性が高い。



伊予鉄道の五十年譜に載っている昔の地図を拡大したものである。
白黒のJR線と、赤の伊予鉄線は分かると思う。緑の点線は廃止路線であるが、これが松電の軌道である。
この地図の伊予鉄山西駅は既に現在の位置に移動しているので、当時の山西電停とは位置が違う。

地図によれば、どうやら山西電停を過ぎたあたりで、南カーブしている。
そして伊予鉄線に接近し、並行して暫く進み、そこからさらに南にカーブをして伊予鉄線から離れている。
だが、この地図は迂闊に信用も出来ないのである。
なぜなら、江ノ口電停の位置が全く違うからである。
実際の位置はもっと東である。

となると、もっと他のデータを調べる必要がある。
そこで登場するのが、航空写真である。

国土地理院 航空・空中写真観覧サービスよりダウンロード。トリミングあり
上の航空写真は米軍が撮影したものをトリミングの上追記したものだ。
新田高校の右側に土手のようなものが続いている。
これが松電の通っていた跡の可能性がある。
一部は新田高校に阻まれ分からなくなっているが、五十年譜の地図と照らし合わせると、
大体こんな感じの線が予想される。




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